智積院


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利休好みの庭















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智積院本坊の、東側に広がる庭は

いつの頃からか「利休好みの庭」と呼ばれています


この寺の複雑な成り立ちから考えるに

千利休が好んで眺めた・・・・というには不自然なのですが・・・


利休が好んだとて、さもあらん

此処を訪れた皆さんが、そう納得するだけの迫力が

この御庭には、あります^^


P.S

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+智積院(ちしゃくいん)+

京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964
東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である
山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という
本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥(げんゆう)である

智山派大本山として、成田山として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺
「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の川崎大師平間寺及び
東京都八王子市の高尾山薬王院がある

智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた
祥雲寺という2つの寺が関係している

智積院は、もともと紀州(現在の和歌山県岩出市)根来山(ねごろさん)
大伝法院の塔頭(たっちゅう、山内寺院)であった
大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130)、高野山に創建した寺院だが
教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140)、大伝法院を根来山に移して
新義真言宗を打ち立てた
智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので
根来山内の学問所であった

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)の根来攻めで、全山炎上した
当時の根来山には2,000もの堂舎があったという
当時、智積院の住職であった玄宥(尭性/ぎょうしょう、1529-1605)は、根来攻めの始まる前に
弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた
玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601)、家康は東山の
豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え
智積院はようやく復興した
さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの
祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」
復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591)
妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった
現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を
飾っていたものであった

アクセス 京都市バス 「東山七条」下車 徒歩3分
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